正しさ、ストレス、お知らせ

【正しさ】

 

例えばさ、

「浮気はダメか」って話があるじゃん?

現代日本ではまぁ大体ダメよね。

そういう制度になってるし。慰謝料持ってかれるし。

 

でも、

フラットに考えた時そうなの?

とか

それが何かを阻害している可能性はないか?

とか、考える余地はあると思うんだよね。

 

いつだか誰かとこういう話をしていて、

相手が懐疑派で論を取っていたのに、自分は保守派(制度派)の話しか言えなかったのを覚えてる。

そうなった時の話って、つまんないよね。

つまんないのは、俺なんだけどさ。

 

 

最近情報に触れてれば、日本やべぇって思うじゃん?

なんでやべぇのかって、考えるわけ。

 

今度は全てに懐疑的になって考えるんだけど、話し相手を求めるとさ、いないんだこれが。

 

「これで社会は回ってるんだから仕方ない」

に尽きるわけさ。

 

 

議論の相手がいないってのは非常に残念なことだね。

人生の不幸ベスト10だよ。

 

まぁでもそれはまだよくて。

結局制度とか社会とか、今あるもんを疑っちゃあ意味がないってことなんだな。

革命家が如何にして革命家になるのか知らないが、俺は多分ならない。どの分野の革命家にも。

 

あーいや、些細なことなら疑って、勝手に自由な生活とか送ればいいと思うんですけど。

自分に向けられる差別に声をあげるとかね。

 

もう、根本から違うよ!という可能性を探るって話で。浮気レベルの。

 

まぁ、そういうことは今後控えて行こうかなと思う次第。

 

つまんないな。

 

【ストレス】

 

生活をストレスが溜まるか放出されるかの観点から見る。

化学反応を熱量から見る。的な。違うか。

 

家庭環境とか生きづらさとか、人間関係とか、そういう感じのストレスを溜める行為。

遊ぶとかなんだとか、ストレスを放出する行為。

要は「この合計が最大になるように人生をプレイしたい」というのが人生の目的なんじゃないの。

で、大失敗すると精神病になると。

 

精神病は多分、特に双極性障害は、よほど大失敗するくらいマイナスを貯められるんじゃないかな。だから大失敗なりのものがついてくる。

 

謹んで努力するべくして生まれ、努力に殺される。

 

 

【お知らせ】

 

静岡県伊東市に、家族で引っ越しました。

 

なにもないです。

 

 

 

負け犬の遠吠え

あー、書きます。本当は書いちゃいけないと思うんですが、書きます。

なんで書いちゃいけないかっていうと、これは僕の負け犬の遠吠えであり、感情的なものだからなのです。ゆえに、正しさについての考察が甘い可能性が極めて高い。嫌われる可能性すらある。

が、そもそも嫌われることを恐れないようにと最近思っているので、多少クズで無駄に毒舌な自分の本性のままに書こうかなと思っています。

 

 

最近のブログだと、

・頭がいいってどういうことか。

・コミュニケーションの話。

・個性の話。

 

を通じて自己分析をしている記事が多いと思います。結果自分は、

 

・指向性のないセンス的な所で生きていて、割と頭は回るが情報処理量が足りず、解決の発想にも至らない。

・そもそもなんかズレていて、擬態でなんとかしている。

・指向性がないので個性なんてものはない。

 

という生き物であることが、30年の歳月をかけてわかりました。

しかし30年がかかったとしてもようやく僕は、ここまでぶつかり続けた壁の正体を特定したのです。

壁とはすなわち、社会の要求してくる能力のことを言うでしょう。その見取り図を作ったうえで、改めて社会や経済のことを見てみたときに、思うことがあります。

 

コミュニケーション能力の比重が高い。

 

BtoBであれBtoCであれ、大して違いのないものを売り歩く、あるいは小手先で変えていく、という作業が、いくら何でも世の中に多すぎやしないか。どっちの企業がやっても大して変わらなくて、ご機嫌取りの人の気持ちや資料やなんや、挙句は値下げと。

 

それで賃金上がるように経済はできているんでしたっけ。

 

もちろん新しいものを作った企業もあると思いますし、業務上どうしてもコミュニケーションの部分が勝負になる企業もあります。例外はあると思います。

 

「調べてみました!」っていうタイプのクソサイトの話とかさ、吉本芸人をMIPの声優にするとかさ、どれも誰かを半分騙したり機嫌とったりして、役に立たないもん売りつけているわけじゃないですか。

そのちょっとマシなやつがその辺にめちゃくちゃ溢れてる気がして。

 

この辺の対極にくる(来ているもんだと信じている)研究の分野があります。
うまく予算がこないとか、いろいろ大変そうな話は聞きます。
「なんの役に立つんだ」とコミュニケーションの文脈で語られることもあるでしょう。

研究自体は、情報の収集と統合みたいなプロセスで、正しい根拠だとか新しいものだとかを探しているところでしょうが、そういうものが社会に出るとなんかもうほぼ要らなくなるんだな。と思ったのがむなしいところです。

 

いや、なんだろな。もうちょっと面白いと思ってた。

コミュニケーション論

 

というか、コミュニケーションに起因する生きづらさについて考えてみようという話。

 

以前の「ぼくとコミュ障」では網羅的に話ができなかった部分について考えていきます。

 

 

僕の言うコミュニケーション上の生きづらさが生じる場合というのは、基本的に集団(1対1を含むが、ここで議論する多くのパターンは3人以上の集団を想定)に受け入れられない場合を指します。「生きづらいなぁ」と感じるとか、陰キャ扱いされるのかとか違いはありますが。このような状況がなぜ生じるか、要素に分けて、各要素の偏りによるコミュニケーションの形態の違いについて考えていきたいと思います。

 

①感性の違い

以前のブログにある通り、自分の考えていることと他人の考えていることが著しく一致しない場合です。アニメのサイコパス的なイメージでもいいと思います。この場合、普通に会話をしようとしても話が合わず、自然と集団から離されていきます。
「僕とコミュ障」では、「ぼくはカッコ悪い感じにズレている」と書きましたが、それがカッコ悪いかどうか自体、④容姿⑤その集団での重要能力に依存します。カッコいい感じにズレていれば、そういうものとして受け入れられます。これも別で書いた、「個性」ってやつです。

 

②擬態力
①があろうとなかろうと、ある程度この力は必要になってきます。①で感性が大衆と一致している場合ではさほど必要とされませんが、うまい会話をしようとしたらやはり必要で、「うまい会話」「うまいキャラクター」のコツを取り込んで擬態していくことが必要です。
感性がズレている場合はここを磨くしかなく、もはや人狼ゲーム状態で会話をこなす必要があると、僕は思っています。

 

③積極性
そもそも積極的に会話をしようという気分がなければコミュニケーションは成立しにくいです。しかし積極性のある場合は、「会話をするといいことがある」と思っているフシが多く、そういう場合は会話によって自信を得ている場合が多いです。主に①からその自信が来ています。②から来る場合や、もともと図太い神経を持っている人もいます。個人的に大嫌いなタイプです。

 

④容姿
女性においては特に重要視されるでしょう、容姿。もはや何をしゃべっているか等関係なくなります。容姿のいい集団から追い出されがちなんだろうと僕は思ってます。高校男子校なんでよく知らないですけど。
男性でも普通に問題にはなると思います。

 

⑤その集団での重要能力
収入でもなんでもいいですが、これがあるだけ自分のコミュニケーション上の他の要素の弱さが許されるようになるはずです。

 

 

この5つ。これの総合点をつけて、高いほど集団に溶け込みやすく、居心地がよく、生きづらくない。と思っています。

 

ちょっと見ていきましょう。

①感性の違い ×
②擬態力 △
③積極性 ×
④容姿 △→×(太りすぎ)
⑤その集団での重要能力 ×

これ今の僕です。ゴミです。
そもそもなんでこれ書いてるかっていうと、それでも擬態して何とかやってきたんですが、それも最近ダメになってきて、もう自分の話誰にも伝わらないような気がしてきたんですよね。ものすごい孤独です。
ライフステージが一人だけ下がっていって、もう話がわからないっていうのと、職場に安定していられないので、安定したコミュニケーション源がないのも原因だと思います。とにかく死にたい。

 

①感性の違い 〇
②擬態力 〇
③積極性 〇
④容姿 ×
⑤その集団での重要能力 ×

とかこういう感じになってくると、この人はもうピエロというかネタキャラになることを強いられると。この状態で②がないと詰みです。

 

とにかく欠けたところをどこかで補うわけですが、この2例の如く擬態で補っている場合が非常に不健康なんですね。かなりこういう人いますけど。擬態の上手さに大小はあると思いますが。

逆に擬態の少ないパターンの人はやっぱり自己肯定感ってやつが上がりますよね。ありのままに近い自分が受け入れられているわけだから。

入るコミュニティを狭めて自分の得意分野で勝負するとか、いろいろスコアを上げる工夫はできますが、そもそも話が伝わってない・通じ合っていない現実は曲がらないんでね。

ただ、これが現代社会特有の問題というか生きづらさかどうかは微妙なところで、むしろ個性という選択肢が出来たくらいの面しかないんじゃないかと、今の感覚的には思います。

 

ところで、職場のキモいおじさんっていますけど、あれは①があって②がないパターンで、ジェネレーションギャップに対応できないタイプの奴だと思っています。
要は世代が離れることによって準ずるべき大衆感覚が変わるんですね。そこに擬態する訓練がなされていないと。

 

大変ですね、なんか。

超ネタバレ「世界一キライなあなたに」

タイトルの映画を全部ネタバレするんで、それでもいい人だけみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい、始めます。

 

主人公の一人、バリバリ働く証券マンか何かだったウィルは数年前の事故で脊髄を損傷。指先と顔しか動かなくなり、実家のお屋敷に住んでいた。

そのお屋敷からウィルの家政婦の高額求人があり、これに飛びついたのが貧乏だったルイーザ。心を開かないウィルに懸命にコミュニケーションを取っていき、徐々に仲良くなっていき、結果的には恋人状態にまでなる。

 

しかしこの家政婦契約は何故か「半年」

それはウィルが自らに定めた安楽死までの期限だった…。

これを知ったルイーザは、あの手この手でウィルを楽しませて自殺を止めさせようとするが…

 

ウィルが死んで終わる

 

という物語です。ルイーザが真実を知るのが比較的早い段階なので、その分切なさの流れる中のラブロマンスが印象的です。

 

さて、ウィルは何故死んだのかを考えたい。

ウィルの状況を考えると

<ネガ>

・自活できない。

・昔のようにバリバリ働くことも遊ぶこともできない。

<ポジ>

・実家が裕福で死ぬほどお金がある。

・彼女ができた。

・イケメン

 

この状態で、果たして死を選ぶのかという難題です。ネガティブ要素があまりに大きいと捉えている描写があり、人前で介護されることにプライドを傷つけられ、昔の夢を見て目が覚めては動かない体に落胆すると。そういうことが積み重なってウィルは死んだ。

 

ここで、かたや僕自身を考えてみる。

<ネガ>

・自活は言うて「できる」ではない。怪しい。

・定期就労が難しく、昔のような働き方はできないどころか、いわゆる「セーブした」働き方すら厳しい。個人的には活躍というものはもう僕の外にある。

・特に気分の沈みに苦悩させられる。

・お金が絶望的にない。

・デブ。

・その状況で彼女は無理。

 

ぶっちゃけ同じくらいか、金が無い分こっちのがひどい。多分俺は死んだほうがいい。

生きづらさ概論

こんにちは。

突然ですが、こういう記事を読みました。

https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/ryo-asai

これを読んで、「生きづらさについて考えるか」と思った所存です。

今回この記事に対して何か言うことは特にないので、これを読まなくても僕の記事は読めます。

 

ていうかさ、とりあえずタイトルに概論ってつけちゃうのやめたいな。概論ってなにかな。

 

<とりあえず分解>

とりあえず分解しないと生きていけない人間です。 

「生きづらさ」ってよく聞く言葉です。なんとなく生きづらいような気もすれば、そうでもないような気もする。けれど、それをテーマに何かが論じられている。そんな風に僕は思っていましたので、ちゃんと考えることにしました。

「生きづらさ」をそのまま字面通りとらえてもなかなか見えてきません。要は生きづらいということは、生きやすいの逆で、容易いことの逆...のはずです。そこに困難がある。生きるということに際して、どういった困難があるというのでしょう。

「容易い」という表現をする場合、何か試練や課題のようなものに対して用いられることが多いでしょう。その場合の「容易い」という意味は「要求に対して、自分の能力等が合致している」ということになると思います。

「生きやすい」とした場合も同様に、世界からの要求に対して、自分の持つものが足りていることを示していると思います(場合により、さらに「快適であること」を示すこともあると思いますが)。

逆に生きづらいということは、生きるということにおいて、「世界からの要求に対して、自分の持つものが合致していない」状況を指すものとして考えましょう。

 

その状況は大きく分けて2パターンと、例外的な1パターンに分かれると思います。

・ひとつめ。
能力的な不一致。苦手な学校の授業や試験、苦手な仕事などが当てはまると思います。刈りや農耕その他もろもろも。そもそもそれを遂行する能力が自分にない場合を指します。

・ふたつめ。
精神的な不一致。僕が詐欺が得意だとして、詐欺の仕事しか選択肢がなかったら嫌です。生きづらいです。能力は合致していながらも、自分の思想信条や指向性が合致していない場合になります。少し前に、テレビかなにかで、「長距離走がめちゃくちゃ速くて箱根で活躍したけれども、そもそも全然好きじゃなくて実業団をやめた」という人の話を見ました。これも「生きづらい」に含んでいいはずです。

・例外。
世界からの要求云々以前に、そもそも生きづらいパターンが存在すると思います。生きているだけで体が痛いとか、そういう場合です。これは今回議論できませんが、くまなく語る上では外せないです。

 

以下、ひとつめを、「能力的不和」、ふたつめを「精神的不和」と呼ぶことにします。

個人的にはこの二つをごっちゃにしていると、いつまで経ってもどうにもならないと思ったので、まず最初に分けました。

 

<オンリーワンの時代>

さて、話を具体的な所にもっていきます。
ここだけ冒頭のインタビュー記事を少しだけ持ってきますと、現代は「個性が重視される、ナンバーワンよりオンリーワンの時代」のようです。本当かどうかは知りませんが、本当という前提で話します。

本当という前提で、「そうだとしたら何が生きづらいのか?」という話にもっていきたいと思います。

 

教育が主語なのか、はたまた社会が主語なのか。「個性を伸ばす」ことが善とされた世界観。

ここでも生きづらさが問われるということは、「能力的不和」や「精神的不和」が生じている。すなわち、「個性的に生きられない」「個性的に生きたくない」という人が存在している。ということになります。

おそらく世の中には、個性的に生きる人と、没個性的に生きる人と、はっきりとそのどちらともいえない人がグラデーション状に存在しているのだと思います。よく見る正規分布表のように。

そしておそらく今までの社会では、没個性的に生きることが優遇されていた。皆同じように生き、同じように死んでいく。日本だけなのかもしれませんが。

それが、
例えば個性を持つ人の輝きがだんだんと注目され、うがった見方をすればその成果を社会が欲しがったという面とか。
例えば没個性的に、すなわち物差しで測れるものとして人間を見るという姿勢のアンチテーゼを求めたとか。
その辺の事情はもっと様々なものが複合的にあるでしょうが、それらの結果としてオンリーワンの尊重があるのでしょう。

 

<時代への対処>

さて、そんな時代にあっての生きづらさに対処していかねばならず、各々オンリーワンに対する態度が違ってくるはずです。

能力的不和が生じる場合と、精神的不和が生じる場合では微妙に対処が異なります。

 

・能力的不和の場合。
オンリーワンになりたいけどなれない状況です。この場合夢を追い続けるか、挫折してつつがなく生きるかです。

ここで、「オンリーワンになれなくても、つつがなく生きられるのかよ!」という話になりますね。よく考えると変な話になるのですが、多分仕事のほとんどはオンリーワンでなくてももちろんできます。だからそういう道を進めばいいだけです。ただ、小さいころから言いつけられた個性偏重の価値観からは評価されない。
評価されない人生を歩むだけのことです。必要なのは耐えること。それだけなのです。もちろん耐えるのが大変だから、「生きづらさ」だという話をしているのですが。

 

・精神的不和の場合。
オンリーワンになれるが、べつにさしてなりたくもない状況です。この場合は耐えてオンリーワンの称賛を得るか、心に素直に生きるかです。

能力的不和の場合よりも忍耐の比重が少ないです。前者の場合では評価が得られ、後者の場合でもそもそもやりたくないことをやっていないだけなのだから。評価は受けられますが、あくまで自分の選んだ道という精神的な安定感は強いはずです。

 

いずれにせよ、忍耐が必要となってくるわけです。能力△精神△くらいの人でも、やはり同じように時代に迎合する、あるいは評価されない忍耐にさらされるでしょう。

ですが、じゃあ個性上位何%以外がみんな忍耐だけで生きているのかということになりますが、そうではないです。

人は取り繕います。嘘をつきます。

「自分は個性的である」と取り繕うことが起きているはずです。

要は、個性的であると扱われればいいだけのことですから、本当に個性的である必要はない。それっぽい感じにして、それっぽいこと言ったらいいんです。それっぽければいいんです。

バックパッカーというものが最近「それっぽさの演出だけに使われているのではないか?」と思われ始めている気がします。そういう面もあるんでしょう。戦略的にバックパッカーをしている人が一定数いると思います。そうしてそれらしき評価を得て、社会に認められたということにすると。立派な生存戦略だと思います。「人の真似してバックパッカーして意味あるのかよ」という意見も見ますが、そこに意味なんか求めてない人多いんじゃないですかね。求めてる人もいますけど。

 ぶっちゃけそれがうまいだけの人多いと思うんです。

 

 

時代への対処というところでもう一点。昔はどうだったのかと。昔は個性的な奴が割を食っていたんじゃないかと。
知らないですけど、尾崎豊みたいにグレてたんじゃないですかね。尾崎豊が本当にグレてたのか知りませんけど。グレることと個性的であることって相性よさそうですし。
逆に没個性的であることとグレることが非常に相性が悪い。つつがなく日常を進行したいのに登校拒否するのは本末転倒です。

だから突然キレるとか言われるのかなって、ふと思いました。

「今の若者は突然切れるけど、昔は話す余地があった」みたいな話は、単純に怒ってる層が違うだけな気が...。

 

<わからない「個性」>

さて、上記対処には前提があります。自分のタイプに自覚的であることです。
自分は個性的でないことを知っていないと、挫折することができない。
僕は自分にバイオリンの才能があるか知りません。やったことないから。同じように言える分野がごまんとあるはずです。どこかに自分の個性がある可能性は否定しきれない。だから、自分探しの旅が始まってしまう。本物のバックパッカーが生まれてしまう。これは大きな問題だと思います。

自分が見つからない時が多分一番大変で、素直な人ほど大変なんだと思います。僕みたいに。この現象が起きてしまうことも、生きづらさに含まれてしまいます。

ここにきて、最初の分類に抜け落ちがあったことが発覚します。

能力が足りない、精神的にあっていない、そして、わからない。

わからないことが大きな問題になるのです。

対処は2種類。ひたすら探し続けることか、それとも思考を止めて忍耐と嘘の世界に身を置くか。どちらももやもやしたまま、長い月日を生きることになります。この生きづらさが、最も残酷なように思います。

 

これで終わりです。なんでこんなこと4,000字も書いたんだろうって思ったんですけれど、理由としては二つかなと思います。

ひとつめは、「オンリーワン世代での生きづらさ」までテーマを絞っても多様な生きづらさがあるわけで、それは整理して考えたほうが自分にとっていいなと思ったから。

ふたつめは、オンリーワンになったからと言って評価されない人が減るわけでは別にないということを言いたかったから。

評価自体が相対的なものなんですかね。資本主義である以上より良いものを評価していくという向きがなければ結局意味がないということになると思うんです。だから別にオンリーワンが悪いわけではない。生きづらさは別に現代だけに生まれるものではなく、時代が変われば別の生きづらさが生まれるというもの。それをちゃんと相対化してとらえて、仕方のないものとして受け入れる感覚が必要なのかなとおもいました。まる。

 

 

 <番外編:遠未来>

最後に話をめっちゃ変えますね。

じゃあ「能力的不和」「精神的不和」をすべて遺伝子検査で明らかにできるようになったX年後の世界はどうでしょう!!!

生まれた瞬間に職業が決まっていて、自分の能力限界も決まっていて、その能力分働けば一律の固定給と。

え?楽しくない??

その理由は何か。競争が必要か?自由が必要か?

でも、その他の暮らしが死ぬほど自由だったとしたら。余暇の量は増えて、自分が最適に楽しめる趣味が提示されて、最適なパートナーも見つけられて。

 

...幸せだと思うけどなぁ。

 

====================ここから障害者トーク==========================

特殊な話になるので分離しました。

Twitter見てると、よく障碍者雇用の話が回ってきて、リツイートしたりします。

「スーパー没個性的な仕事しかなく、給料も安い」とどのツイートも言っています。

僕ら多分、この記事で書いたよりももっと生きづらさを感じて生きなくちゃいけない。

でも、逃げ道はない。ひたすら耐えるだけ。

ここにあって僕らはどう生きるべきか。はまた今度書きたいと思います。

私立クソリプ学園

開校!

クソリプについての考察を3コマ行い、単位も学位も認定しない学園である!

授業はじめっ!

 

<1限、クソリプ概論>

 

クソリプ」と申しますがね、なにがクソリプなのかと僕は思ったわけです。
僕が普通にツイートしたのに、「うんこ」とか言ってくるひとはクソリプなのかと。
いや「クソ」の「リプライ」であるからクソリプなんだろうし、クソみたいなリプライという点でもクソリプなんだろうけど、今回この類のクソリプは考えないことにします。この類のものは単純に頭が壊れているかふざけているかのどちらかです。
そうではなくて、真面目にリプライをしているのに結果がうんこというケースについて考えてみたいと思います。

 

具体的に何をクソリプとして扱おうとしているのか。

僕の思うクソリプをここに張り付けてしまうと怒られる可能性があるので、どっかで見た気がする例を挙げます。

 

「この料理おいちい!!!」とツイート。

→「世界には恵まれない子供がいるのに!!!恵まれない国で低単価で作られた料理を食べて恥ずかしくないのか!!!」とリプ。

 

した場合、後者をクソリプと呼ぶと思います。

「呼ぶと思います」と僕が言っているからには何か定義があるからで、ちょっと考えてみました。

①リプ先が話題にしていない角度から、

②自分の立場や思想を主張する形でリプライをする。

行為になります。
(この箇条書きパターン、僕のブログに多いけどみんなうんざりしてるのかな...笑)

 

例示されたパターンでは

①料理のおいしさを話しているのに、貧困という全く関係のない話題をブチこんでいる。

②かつ、貧困問題に関心が深い自分の立場を主張している。

ので、クソリプという形になります。

 

これですね、揚げ足取りというか言葉狩りみたいなところがあって、とにかく隙あらば自分の主張をしようというものなんですね。

挙げても問題ない実例で行くと、タレントの辻希美さんのブログが何を書いても文句を言われるという話をまとめサイトで読んだのですが、あれもTwitterではないですがクソリプの類になると思います。

①辻さんの話をしている部分から全く外れて、

②「辻さんが嫌い」という立場を主張する形でコメントをしている。

んですね。凡例と揃えたので少し見にくい日本語になって申し訳ありませんが。

 

<2限、忍び寄るクソリプ

 

で、これが辻さんとか急進的な政治思想やフェミニズムだったらまだ多少はわかりやすくて、「あーこれはクソリプ」とか思うと思うんですが、問題はこれが日常会話に近づいてきたときなんですよね。

いや別に政治じゃなくても主張したいことってあるじゃないですか。

 

うた恋い。は面白いとか。

BLACK LAGOONは面白いとか。

 

オタク的視点になる場合とか、クソリプの危険がすぐ隣にいると思うんですよね。

まぁそうでなくても、一家言持っている分野の話とか、関心がある話とか。

そういう場合に、①と②を同時に満たしてしまう場合があるんですね。

 

これがなかなか治らなくて困ってます。

僕の話です。

 

もうなんかね、Twitterって140文字なうえに1文字が重いんですよね。チャットとかLINEとかと違って。「こん^^」とか言ってる場合じゃないし、スタンプ送ってる場合でもないんですよ。そんなにマシンガンリプライにならないメディアだし、詰められる情報は詰めたいと思ってしまうんですよね。それがいけない。どうしても本筋に関係のない余計な主張をしてしまう。お前の話聞いてないんやってなる。会話のドッジボールが始まる。悲しみ。みなさんごめんなさい。2限を終わります。

 

<3限、許されるクソリプたち>

さて、僕のクソリプの話は忘れましょう。世の中には「クソリプ型」をとっていながらにして、クソリプではないツイートというものが存在します。

 

「おなかいっぱいで少し残しちゃったけど、この料理おいちい!!!」とツイート。

→「世界には恵まれない子供がいるのに!!!恵まれない国で低単価で作られた料理を食べて、しかも残して恥ずかしくないのか!!!」とリプ。

 

ツイートの趣旨とは違い、かつ強引に自分の主張を通してはいますが、妥当性が増しました。この批判の妥当性というのが厄介であり、グラデーション状になっています。
(ほとんど料理を残している~ご飯粒が残っている、等)おそらく人によって、「これは批判されても仕方ない」のラインが異なってきます。

辻さんのブログもガチで妥当な指摘が入っていれば、それはクソリプではないのでしょう。

 

クソリプ紙一重で正義です。

 

だからこそ人はクソリプを送るのでしょう。正義を信じて。

 

ぼくと東京大学

書きたくなったので、書きます。

以前からずっとぐるぐる回ってるテーマの、多分、多分完結編。ぼくにとっての、好きなことって何か。

この記事読んだら話が全部わかるので、過去記事を読む必要は全くないですが、一応シリーズのバックナンバーとして。笑

www.penguin-diary.com

 

www.penguin-diary.com

 

バックナンバーを読んでいると、記事の性質が全然違いますね。突然ふわふわしたこと言いだしたり、いい加減な記事書いてみたり。いつ非公開にするか悩んでます。笑

結局似たようなこと書いていたりして、この記事も似たようなこと書いてあったりしないか不安です。笑

 

便宜上というか、 話の性質上「ぼくは勉強ができる」という立場で書きます。山田詠美さんに戦いを挑んでいるわけではないですが。そういう鼻につく文章が嫌な方は見ないほうがいいと思います。別に終始自慢するわけではないというのは読んでもらえたらわかると思うんですが。むしろ落ちぶれ寄りです。

「頭が良いとは何か」という記事をこの間上げましたが、いわばこっちは「勉強ができるとは何か」に近い話し方をします。そこから自分の興味とかの話をしていく予定です。

それでは、どうぞよしなに。

 

 

僕は勉強ができた。できたのだが、ちょっとした悩みがあった。

得意科目がなかった。

マジでなかった。

じゃぁ全部できるのかといえば、そこそこ全部できるのだけど、テストのたびに点数のいい科目が違った。しいて言えば歴史や倫理や国語が好きだったけど、普通に数学の方が良かったりするので意味が分からない。

なんの科目が楽しいとか、好きだとかいう感覚がいまいちしっくりこなかった。

 

今思うと僕にとっての試験は、効率的に点数を取るゲームだったんだと思う。

科目ごとに効率のよい考え方・点数の取れる考え方があって、それを見つけていくのが好きだった。量に頼るのが好きじゃなかった。そしてそれが点数になって、それなりのご褒美として返ってくるのが好きだった。ただそれだけなんだと思う。あんまりほめてくれない親だったら、きっと勉強もできなかったんだろう。

 

受験を頑張った話はどうでもいいとして、ぼくは東京大学に入る。

入学してちょっとすると、「入試の点数を教えてあげるよ」と大学が言い出して、皆嬉々として聞きに行った。傍から見ると気持ち悪いが、1年だの2年だのもっとだの努力した集大成の結果くらいは知りたいという気持ちは仕方がない。

 

点数を見てみたら、予想はしていたが合格ギリッギリだった。

そして一緒に見に行ったみんなの得点は、なんかすっごい高かった記憶がある。いや現実大して高くなかったのかもしれないけど、「すげーなマジ」って思った記憶が残っている。

おそらくみんな、僕とは違う競技をしていた。僕が一人で効率を求めて悦に浸ってる間にも猛烈に知識を取り入れ、すべての力をもって試験を圧殺しているんだろうなと思った。

「それはちょっと無理」

僕はぼんやりこのへんで思ったんだと思う。

ということで、僕は大学に入ってあまり勉強をしなくなる。僕が面白いと思っていたポイントがなくなってしまったからだ。なんて薄っぺらな男。悲しくなる。

やる気が出なくなって、なんか遊んで過ごしていた。

 

とはいえ何も考えていなかったわけでもない。

東大に入って1~2年生のうちは、どういう区分で入学しても、みんな教養学部に入れられ、いろんな授業が取れるようになっている。僕はこれを楽しみにしていた。

なんか楽しいもの見つかるかも。

この希望を胸に、なんかたくさん授業を入れた。

この1~2年の授業なんだけど、進級するまでにとった科目の平均点により、2年次に発生する「進学振り分け」が決まるのだ。みんな教養学部だったのが、成績順で次の学部を選べる。

もちろん文系で入ったのに医学部に行くとかはかなり難しいことになってるけど。

なんかたくさん授業を入れると、平均点を上げるのが難しくなる。1科目諦めるてブッチすると、0点とかいう科目が爆誕してしまい大変なことになる。最小限、点数をくれる教官を選んで点数を上げるのが得策なのだ。

 

ここで僕は思考を停止した。

イヤだ。

ぼく得意科目見つける。

 

たくさん取ると大変で、っていうかほとんどまともな点数取れなくて聞くだけ聞いたりしながらぼんやり過ごした。興味なくなったら切ったりした。クズ学生が爆誕した。

わけもわからずアラビア語を模写しているときは自分が何をしているのかもよくわからなくなっていた。

 

あ、サークル活動の話をしていなかった。2つ入って、遊び歩いていた。

これは別に後悔はしていない。遊ばずテストの点を上げる勉強をすればとか別に思わない。

まぁでも遊びすぎて疲れて勉強してなかった面とかもあるんだろうけど。

 

さて、結局見つかったのか。

結論から言うと、2年の後の方に受けた、都市計画の授業が一番面白かった。

こういう風に看板を配置すると人はこう動くとか、なんかそういう話をしていた気がする。

とりあえず点数低くても入れた、その学科の隣の学科に入った(こうして文系として入学した僕は工学部卒というよくわからない称号を得る)

 

その後、僕は広告が好きになる。

こういう風に書くと人は感動するとか、なんかそういう話の本に感銘を受けた。

 

じゃぁ都市計画家になりたかったのか。広告クリエイターになりたかったのか。

そのことがずっと僕の頭の中にあった。

 

多分違う。

 

効率厨が治ってないだけだ...。

 

「人を動かせる法則」は僕にとって物珍しく、キャッチーで、試験を切り抜ける法則とよく似ていた。そういう便利な法則が便利に使われているのが好きなだけだった。

そういう浅はかな関心で、僕は街づくりを、広告を、見ていた。

何をもって誰かを幸せにするとか、この分野をどうしても読み解きたいとか、やっぱり僕には向いていない。

あくまでゲームと、その独自な攻略法にのみ、僕は興味を示す。

社会学とかも出会うのが早かったら違ったのかもなとは思うけど、社会学の人がいたらなめんなって言われるから先に謝る。ごめんなさい。

 

なにが言いたいかって、ボードゲームはめっちゃ楽しいよってことかな...。

「このゲームはつまりこういうゲームだな!!」って言って当たりだったときとか楽しい。

 

まぁ、業務効率化とかも普通に楽しいから、内勤寄りのサラリーマン向きだなぁとは思うんだよなぁ。もうなれないけど。営業とかはちょっとコミュ障なので。

 

ここまで読んでくれてありがとうございました。