生きづらさ概論

こんにちは。

突然ですが、こういう記事を読みました。

https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/ryo-asai

これを読んで、「生きづらさについて考えるか」と思った所存です。

今回この記事に対して何か言うことは特にないので、これを読まなくても僕の記事は読めます。

 

ていうかさ、とりあえずタイトルに概論ってつけちゃうのやめたいな。概論ってなにかな。

 

<とりあえず分解>

とりあえず分解しないと生きていけない人間です。 

「生きづらさ」ってよく聞く言葉です。なんとなく生きづらいような気もすれば、そうでもないような気もする。けれど、それをテーマに何かが論じられている。そんな風に僕は思っていましたので、ちゃんと考えることにしました。

「生きづらさ」をそのまま字面通りとらえてもなかなか見えてきません。要は生きづらいということは、生きやすいの逆で、容易いことの逆...のはずです。そこに困難がある。生きるということに際して、どういった困難があるというのでしょう。

「容易い」という表現をする場合、何か試練や課題のようなものに対して用いられることが多いでしょう。その場合の「容易い」という意味は「要求に対して、自分の能力等が合致している」ということになると思います。

「生きやすい」とした場合も同様に、世界からの要求に対して、自分の持つものが足りていることを示していると思います(場合により、さらに「快適であること」を示すこともあると思いますが)。

逆に生きづらいということは、生きるということにおいて、「世界からの要求に対して、自分の持つものが合致していない」状況を指すものとして考えましょう。

 

その状況は大きく分けて2パターンと、例外的な1パターンに分かれると思います。

・ひとつめ。
能力的な不一致。苦手な学校の授業や試験、苦手な仕事などが当てはまると思います。刈りや農耕その他もろもろも。そもそもそれを遂行する能力が自分にない場合を指します。

・ふたつめ。
精神的な不一致。僕が詐欺が得意だとして、詐欺の仕事しか選択肢がなかったら嫌です。生きづらいです。能力は合致していながらも、自分の思想信条や指向性が合致していない場合になります。少し前に、テレビかなにかで、「長距離走がめちゃくちゃ速くて箱根で活躍したけれども、そもそも全然好きじゃなくて実業団をやめた」という人の話を見ました。これも「生きづらい」に含んでいいはずです。

・例外。
世界からの要求云々以前に、そもそも生きづらいパターンが存在すると思います。生きているだけで体が痛いとか、そういう場合です。これは今回議論できませんが、くまなく語る上では外せないです。

 

以下、ひとつめを、「能力的不和」、ふたつめを「精神的不和」と呼ぶことにします。

個人的にはこの二つをごっちゃにしていると、いつまで経ってもどうにもならないと思ったので、まず最初に分けました。

 

<オンリーワンの時代>

さて、話を具体的な所にもっていきます。
ここだけ冒頭のインタビュー記事を少しだけ持ってきますと、現代は「個性が重視される、ナンバーワンよりオンリーワンの時代」のようです。本当かどうかは知りませんが、本当という前提で話します。

本当という前提で、「そうだとしたら何が生きづらいのか?」という話にもっていきたいと思います。

 

教育が主語なのか、はたまた社会が主語なのか。「個性を伸ばす」ことが善とされた世界観。

ここでも生きづらさが問われるということは、「能力的不和」や「精神的不和」が生じている。すなわち、「個性的に生きられない」「個性的に生きたくない」という人が存在している。ということになります。

おそらく世の中には、個性的に生きる人と、没個性的に生きる人と、はっきりとそのどちらともいえない人がグラデーション状に存在しているのだと思います。よく見る正規分布表のように。

そしておそらく今までの社会では、没個性的に生きることが優遇されていた。皆同じように生き、同じように死んでいく。日本だけなのかもしれませんが。

それが、
例えば個性を持つ人の輝きがだんだんと注目され、うがった見方をすればその成果を社会が欲しがったという面とか。
例えば没個性的に、すなわち物差しで測れるものとして人間を見るという姿勢のアンチテーゼを求めたとか。
その辺の事情はもっと様々なものが複合的にあるでしょうが、それらの結果としてオンリーワンの尊重があるのでしょう。

 

<時代への対処>

さて、そんな時代にあっての生きづらさに対処していかねばならず、各々オンリーワンに対する態度が違ってくるはずです。

能力的不和が生じる場合と、精神的不和が生じる場合では微妙に対処が異なります。

 

・能力的不和の場合。
オンリーワンになりたいけどなれない状況です。この場合夢を追い続けるか、挫折してつつがなく生きるかです。

ここで、「オンリーワンになれなくても、つつがなく生きられるのかよ!」という話になりますね。よく考えると変な話になるのですが、多分仕事のほとんどはオンリーワンでなくてももちろんできます。だからそういう道を進めばいいだけです。ただ、小さいころから言いつけられた個性偏重の価値観からは評価されない。
評価されない人生を歩むだけのことです。必要なのは耐えること。それだけなのです。もちろん耐えるのが大変だから、「生きづらさ」だという話をしているのですが。

 

・精神的不和の場合。
オンリーワンになれるが、べつにさしてなりたくもない状況です。この場合は耐えてオンリーワンの称賛を得るか、心に素直に生きるかです。

能力的不和の場合よりも忍耐の比重が少ないです。前者の場合では評価が得られ、後者の場合でもそもそもやりたくないことをやっていないだけなのだから。評価は受けられますが、あくまで自分の選んだ道という精神的な安定感は強いはずです。

 

いずれにせよ、忍耐が必要となってくるわけです。能力△精神△くらいの人でも、やはり同じように時代に迎合する、あるいは評価されない忍耐にさらされるでしょう。

ですが、じゃあ個性上位何%以外がみんな忍耐だけで生きているのかということになりますが、そうではないです。

人は取り繕います。嘘をつきます。

「自分は個性的である」と取り繕うことが起きているはずです。

要は、個性的であると扱われればいいだけのことですから、本当に個性的である必要はない。それっぽい感じにして、それっぽいこと言ったらいいんです。それっぽければいいんです。

バックパッカーというものが最近「それっぽさの演出だけに使われているのではないか?」と思われ始めている気がします。そういう面もあるんでしょう。戦略的にバックパッカーをしている人が一定数いると思います。そうしてそれらしき評価を得て、社会に認められたということにすると。立派な生存戦略だと思います。「人の真似してバックパッカーして意味あるのかよ」という意見も見ますが、そこに意味なんか求めてない人多いんじゃないですかね。求めてる人もいますけど。

 ぶっちゃけそれがうまいだけの人多いと思うんです。

 

 

時代への対処というところでもう一点。昔はどうだったのかと。昔は個性的な奴が割を食っていたんじゃないかと。
知らないですけど、尾崎豊みたいにグレてたんじゃないですかね。尾崎豊が本当にグレてたのか知りませんけど。グレることと個性的であることって相性よさそうですし。
逆に没個性的であることとグレることが非常に相性が悪い。つつがなく日常を進行したいのに登校拒否するのは本末転倒です。

だから突然キレるとか言われるのかなって、ふと思いました。

「今の若者は突然切れるけど、昔は話す余地があった」みたいな話は、単純に怒ってる層が違うだけな気が...。

 

<わからない「個性」>

さて、上記対処には前提があります。自分のタイプに自覚的であることです。
自分は個性的でないことを知っていないと、挫折することができない。
僕は自分にバイオリンの才能があるか知りません。やったことないから。同じように言える分野がごまんとあるはずです。どこかに自分の個性がある可能性は否定しきれない。だから、自分探しの旅が始まってしまう。本物のバックパッカーが生まれてしまう。これは大きな問題だと思います。

自分が見つからない時が多分一番大変で、素直な人ほど大変なんだと思います。僕みたいに。この現象が起きてしまうことも、生きづらさに含まれてしまいます。

ここにきて、最初の分類に抜け落ちがあったことが発覚します。

能力が足りない、精神的にあっていない、そして、わからない。

わからないことが大きな問題になるのです。

対処は2種類。ひたすら探し続けることか、それとも思考を止めて忍耐と嘘の世界に身を置くか。どちらももやもやしたまま、長い月日を生きることになります。この生きづらさが、最も残酷なように思います。

 

これで終わりです。なんでこんなこと4,000字も書いたんだろうって思ったんですけれど、理由としては二つかなと思います。

ひとつめは、「オンリーワン世代での生きづらさ」までテーマを絞っても多様な生きづらさがあるわけで、それは整理して考えたほうが自分にとっていいなと思ったから。

ふたつめは、オンリーワンになったからと言って評価されない人が減るわけでは別にないということを言いたかったから。

評価自体が相対的なものなんですかね。資本主義である以上より良いものを評価していくという向きがなければ結局意味がないということになると思うんです。だから別にオンリーワンが悪いわけではない。生きづらさは別に現代だけに生まれるものではなく、時代が変われば別の生きづらさが生まれるというもの。それをちゃんと相対化してとらえて、仕方のないものとして受け入れる感覚が必要なのかなとおもいました。まる。

 

 

 <番外編:遠未来>

最後に話をめっちゃ変えますね。

じゃあ「能力的不和」「精神的不和」をすべて遺伝子検査で明らかにできるようになったX年後の世界はどうでしょう!!!

生まれた瞬間に職業が決まっていて、自分の能力限界も決まっていて、その能力分働けば一律の固定給と。

え?楽しくない??

その理由は何か。競争が必要か?自由が必要か?

でも、その他の暮らしが死ぬほど自由だったとしたら。余暇の量は増えて、自分が最適に楽しめる趣味が提示されて、最適なパートナーも見つけられて。

 

...幸せだと思うけどなぁ。

 

====================ここから障害者トーク==========================

特殊な話になるので分離しました。

Twitter見てると、よく障碍者雇用の話が回ってきて、リツイートしたりします。

「スーパー没個性的な仕事しかなく、給料も安い」とどのツイートも言っています。

僕ら多分、この記事で書いたよりももっと生きづらさを感じて生きなくちゃいけない。

でも、逃げ道はない。ひたすら耐えるだけ。

ここにあって僕らはどう生きるべきか。はまた今度書きたいと思います。